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大阪駅の誕生からはじまる、梅田エリアのたゆまぬ発展

大阪駅の誕生からはじまる、梅田エリアのたゆまぬ発展

1日の乗降客数が約250万人の西日本最大のターミナル駅である大阪・梅田エリア。JR大阪駅をはじめ、阪急電鉄、阪神電気鉄道、Osaka Metroとじつに7駅13路線が乗り入れる。現在の発展の礎となったのは、1874(明治7)年、日本で2番目に開通した大阪~神戸間の官営鉄道[後の日本国有鉄道(国鉄)、現在のJR]である大阪駅の開業だ。

1874年に開業した初代大阪駅はイギリス人技師による、日本の鉄道駅では初となるレンガづくりの近代的な建物で「梅田ステンショ」と呼ばれ親しまれた。(提供:大阪市立図書館デジタルアーカイブ)

当初の計画では市街中心地の堂島に駅を開設予定だったが、周囲の反対運動や神戸以西に鉄道を延長する計画が持ち上がり、郊外ののどかな田園風景が広がる梅田に赤レンガづくり2階建ての初代大阪駅が開設された。梅田の地名の由来は諸説あるが、湿地帯だった土地を埋め立てた「埋田」という説が有力で、この界隈では江戸時代から灯明用の菜種油を採取するための菜の花畑が広がり、俳人・与謝蕪村が「菜の花や月は東に日は西に」とこの辺りの風景を詠んだともいわれている。

江戸時代には「天下の台所」として日本全国から水運ネットワークにより物資が集積し、経済の中心地だった大阪。鉄道が開通された明治初期にも水運は盛んで、大阪駅にも直接船が乗りつけられるよう開削された運河がつくられた。1889(明治22)年には新橋~神戸間の東海道線全線を開通。1928(昭和3)年には旅客と貨物分離が行われ、梅田貨物駅が開業した。これにより旅客の大阪駅は高架化され、貨物はその北側に移転し、さらに大阪駅は時代を経るごとに拡張していくことになる。

堂島川と運河がつながっており、鉄道と水運をスムーズに連絡していた梅田貨物駅。1962年まで貨物ヤードの南北にあった掘割も使用していた。[提供:国土地理院撮影の空中写真(1961年撮影)]

物流一大拠点だった大阪駅が、西日本最大の複合商業エリアへと大きく発展を遂げ、大阪の玄関口としてのターミナル駅に変貌できたのは、阪急電鉄と阪神電気鉄道の存在が大きい。明治30年末~40年代にかけて、阪神電気鉄道の大阪~神戸間の開通、箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)の梅田駅の開業と相次ぎ、1929(昭和4)年には世界初となる駅直結型の百貨店である阪急百貨店(現:うめだ本店)が誕生した。その後、阪神百貨店の前身である阪神マートも開業し、梅田エリアは多くの人で賑わい急速に発展していった。

開業1910年3月10日、箕面有馬電気軌道の梅田駅。梅田を起点とした梅田駅~宝塚駅間、石橋駅~箕面駅間の路線が開通し、街の賑わいとともに鉄道網は広がっていく。(提供:阪急電鉄)
1929年に竣工した(旧)梅田阪急ビル。地上8階・地下2階という、当時では巨大な 複合商業施設「阪急百貨店」が開業。7・8階に設けられた大食堂では、看板メニューのライスカレーが人気を博した。(提供:阪急電鉄)

「阪急阪神ホールディングスグループは、何もなかったターミナル駅の周辺に百貨店、複合ビルなど都市が備えるべき機能を順次整備して梅田の街と文化をつくり上げた自負があります」と阪急阪神不動産の谷口丹彦さんは言う。「開発するときは“常に新しいものを”と念頭に、地下でありながら人工的な川が流れるショッピングセンターの阪急三番街を1969(昭和44)年に開業させました。そして、駐車場をはじめオフィス、レストラン、クリニックも備えた国内初の複合ビルであり、当時の大阪ではもっとも高層とされる地上32階建ての阪急グランドビルを1977(昭和52)年に竣工しました」

谷口丹彦さん/阪急阪神不動産株式会社(取締役 開発事業本部 副本部長 うめきた事業部長)

梅田エリアの開発は、高度成長期の商業施設開業や地下街形成など大阪駅南側が中心だったが、大きく北側へ舵をきったのは1987(昭和62)年の国鉄分割民営化だ。大阪駅北側に広がっていた約24ヘクタールの梅田貨物ヤード跡地を、国際競争力を高め未来の関西を牽引していく、都市再生モデル地区として指定した。2002(平成14)年に大阪市より要請を受けた独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)は、コーディネート業務を引き受け、産官学連携の新しいまちづくりへと動き出した。

うめきた1期計画の初期段階から携わるUR都市機構の島本健太さんは、未来の新しいまちを世界に問うた国際コンペを振り返る。「2002年に実施した大阪駅北地区国際コンセプトコンペには、世界52カ国966点といまだかつてない数の作品が集まりました。優秀賞に選ばれたアルゼンチンのマリオ・ロベルト・アルバレスさんの案は、緑を中心において都市と一体化しているアイデアで、現在の基本構想に非常によく似通っています。またこのときに入選した東北芸術工科大学の小林敬一さんが謳った“知識創造拠点の形成 ナレッジコア”は、基本方針のひとつであるナレッジキャピタルの構想につながりました」

島本健太さん/独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)(西日本支社 うめきた都市再生事務所 所長)

2013(平成25)年にうめきた先行開発区域のグランフロント大阪が開業。年間5,000万人が訪れるランドマークとなっている。
「大阪駅南側には地下街が広がり、人が地上を歩かなくなっています。うめきたでは地下でつなげずに地上を中心とした太陽と緑を感じる街にしていこうと、駅前に建築家の安藤忠雄さんが参画したうめきた広場と大階段を設けました」と島本さん。
「あれは素晴らしい都市計画でしたね。人のために整備された駅前広場というのは新橋駅のSL広場ぐらいしか思いつきません。そこよりもスケールの大きい西日本最大のターミナル駅で、車が入らない公共広場が駅前に広がるというのは画期的だったと思います」と谷口さん。

2013年に完成した大阪駅北口の正面に広がる、約10,000㎡のうめきた広場。昼(上)も夜(下)も人々が集う賑わいの場となる。西側には2023年開業予定の新駅への連絡通路を配置。(提供:UR都市機構)

そして、現在開発が進められ2024(令和6)年に先行まちびらきを予定しているうめきた2期。先行開発区域の知的創造拠点ナレッジキャピタルと連携し、みどりとイノベーションの融合拠点となる新しいまちがつくられる。
「歴史を鑑みると、かつて大正時代のこのエリアには大阪府立北野高等学校の前身である北野中学校や梅花女学校(現:梅花学園)など、多くの教育機関が集まる文教地区だったようです。つまりナレッジキャピタルのベースがあったということ。また、日本中の物資が集まるハブ機能を持つ地でもあったのです。新しい時代の新しいハブ機能を持つまちをつくるように、過去から託されているような気がしています」と島本さん。
「うめきた2期は、公園が主役になるまち。おそらく日本ではじめて官民が提携してゼロからつくり上げる公園だと思います。大阪はもともと緑が少ない都市。でも、だからこそ都市における緑の必要性や緑の利活用を世界に伝える役割もあると思っています」と谷口さんが続ける。

「アメリカ最古の都市公園といわれているボストンコモンは、パークとは呼ばれていないんですね、パークの語源は柵で囲まれた場所です。一方、コモンは共に持つ皆の場という意味。うめきた2期の都市公園も地元の人たちに愛される開かれた場所でありたい。我々は『 “の”の字のまちづくり』と言っていますが、うめきただけではなく、茶屋町、梅田1丁目、西梅田、大淀や中津、淀川エリアにもどんどん“の”の字で広がり、多層的な奥深さをつくっていく街でありたいと思っています」と島本さん。
公園を起点に周囲のエリアを巻き込みながら、イノベーションが螺旋状に広がっていく新しいまち「うめきた」。梅田の歴史に新たな章が始まろうとしている。

写真:内藤貞保 文:脇本暁子

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